チャールズブルースによるアッサム茶のレポート

アッサム種の茶樹の発見者                         
チャールズブルースによるアッサム茶のレポート


MR BRUCE’S REPORT ON ASSAM TEA
CHAMBERS EDINBURGH JOURNAL (SATURDAY,JANUARY,25,1840)より

紅茶に適していると言われるアッサム種の茶樹。それは1823年、イギリス人ロバートブルース、チャールズブルース兄弟によって、インド・アッサムの奥地で発見されました。そして1839年、ロンドンで競売にかかった最初のインド紅茶の8箱もまた、発見者のチャールズブルースの監督の元に作られた紅茶でした。

このレポートは、最初のインド紅茶の競売が有った1年後、そのチャールズブルース自身が書いたアッサムの茶の報告を元に、アッサムの茶の現状をチャンバーズエジンバラジャーナルが記事にしたものです。

ここには、今まで言われていた事とは違った1830年代のアッサムのお茶の現状が、チャールズブルース自身の言葉として書かれています。
紅茶専門店 TEAS Liyn-an ではこのブルースのレポートを、翻訳工房ロゴス様のご協力で翻訳し、「アッサム紅茶文化史」の著者、松下智先生にチェックをお願いしました。

今、皆様にその日本語訳をお届けします。  原文を読みたい方はこちら 

今、ここにアッサムの紅茶の歴史の一部が書き変わります。
その書き変わる紅茶の歴史を、順次、解説していきますので、お楽しみに。

2005/12/30 紅茶専門店 TEAS Liyn-an 店主 堀田信幸


翻訳方針   翻訳工房ロゴス 井口智子

※固有名詞中、『アッサム紅茶文化史』雄山閣出版(松下智著)中に 記載のあるものは、その表記法に従った。

表記に違いはあるが同書中に 記載された固有名詞との同定が確認できた場合には、同書中の記載に 従った。

同書によって確認できなかったものについては、原文つづりを ローマ字読みしてカタカナ表記し、初出時に原文つづりを併記した。 訳注が必要と思われる語には、当該語に続くカッコの中に簡単な説明を 記した。

地名で新地名があるものについては、原文に表記されている 旧地名のままとし、初出時に新地名を併記した。

中国と茶の取引を継続するにあたっては、今後とも困難な成り行きが予想され、近年では、中国以外の場所から茶を入手できるかどうかをめぐって議論が行われている。
パラグアイには茶として利用されている近縁種(”kindred plant;マテ茶のことと思われます。)があり、英国投資家の注目を集めてきた。この件に関しては、さまざまな旅行者たちの報告をまとめた記事を先般掲載したところであるから、読者のみなさんは記憶されていることだろう。
アジアの一地域(中国近辺に位置するが中国領土ではない)から通常の茶を入手できる見通しが立ったことも、周知のところだと思う。
1834年、英領インドにおける茶樹栽培を促進する目的でカルカッタ(コルカタ)に委員会が設置され、中国から種子と苗木を運び込むための手続きがただちに進められた。だが、これらが搬入されるより前に、アッサム地方で茶樹が自生していることがわかった。カルカッタの北500マイルの場所に広がるアッサム地方は、ブラマプトラ川のそばに位置しており、東インド会社の管轄からははずれるが英国の影響下にある。
委員会はただちにC.A.ブルース氏(同氏は14年前にこの茶樹を発見していたようである)に対して、同地方を調査し、この茶樹を栽培して茶葉を得ることが可能であるかどうかについての報告書を提出するよう依頼した。

そのブルース報告書(於ジャイプール、1839年6月10日付)が先ごろわが国に到着し、複写版を特別に入手することができたので、その要点をみなさんにお伝えしよう。
ブルース氏が現在までに調査したマタック(Muttock)およびシンフォー(Singpho)地域は、北緯26度から28度、東経94度から96度の範囲に位置している。ここで重要なのは、この北緯度数が中国で最良の茶葉を産する地域と重なっていることであり、中国での産地は、同上地域の度数に類似した北緯27度から31度の範囲に展開している。
同地域は、農業面でも社会慣行面でも非常に嘆かわしい状態にある。住民は一箇所に定住せず、重篤なアヘン中毒に陥っている。
茶樹が発見されたのは、同地域の大部分を覆う天然木の茂みや密林の中であり、ブルース氏によると、茶樹は樹陰を利用して成長していた。
茶樹は数百ヤードにわたる広い区画内で生育している場合が多く、まばらに生えた木が別の区画との間をつなぐ形になっていた。
ブルース氏は上記のような区画を120箇所発見した。
これらの区画はすべて平地に存在している。
以下は、ブルース報告書からの抜粋である。茶樹探索がどのように行われたかについては、これを読んでいただくのがいいだろう。「昨年、ジャイプールの背後にある丘陵のひとつを調査していた際、高さ約300フィートの地点で茶樹が生育する区画を発見した。区画の端がどこか確認したわけではないが、2、3マイル先までは続いていると思われた。区画内の大部分では茶樹がこれ以上ないというほどに密生しており、種子(以前に見たものよりも小さかったが)はよく成熟して、地面をびっしり覆っているように見えた。時期は11月中旬であり、茶樹には多数の実と花が見られた。私が見つけた最大級の茶樹は周囲2キュビット(1キュビット:43~53cm;ランダムハウス英和辞典)、高さ40キュビットに達していた。
丘の麓でも別の区画を発見した。残念ながら周辺を調査する時間はなかったが、その時間があれば、このナガ丘のかなりの部分が茶樹に覆われていることを確認できたのは間違いないだろう。
この近くにはほかにもまだ生育区画が2箇所あるという話だったからだ。
丘の麓に沿って西に行くと、テウェアック(Teweack)もしくはその近辺に茶樹があるという情報を得た。この情報を入手したのが遅すぎたため、茶樹の場所を通り過ぎてしまって、ダッカ川の東に少し行った地点にあるチリドー(Chiridoo)と呼ばれる場所に出た。この場所は、北方に広がる平原から盛り上がった小さな丘であり、レンガで造られた寺院の跡があった。茶樹を発見したのはこの場所だった。調査する時間があれば、間違いなくもっと多くの生育区画を確認できただろう。ゲルゴン(Ghergong)の古砦でダッカ川を渡って丘地帯へと進んでいくと、ほどなくして茶樹の場所に至った。
この場所はハウトウェー(Hauthoweah)と呼ばれている。
ここに数日間滞在して周辺を歩き回り、13箇所もの生育区画を確認することができた。
私を補佐してこれらの生育区画を探し出した土地の有力者は、ジュンポー族のもとに滞在していた時期に茶を飲む習慣があったため、茶葉を見慣れており、チリドーから西に向かって1日歩いた場所にあるナガ山地で、茶樹の大規模な生育区画を見たことがあると言った。
この話は信じていいだろう。彼は、私か私の部下にならその場所を教えてもいいので一緒に行こうと申し出てくれた。だが、この地域はプランダール・シン王(Poorunda Sing)の支配下にあったため、調査を行うことはできなかった。
きっとそこでは、いたるところに茶樹が生えているのは間違いないだろうが。
さらに南西に進んでガブルー(Gabrew)丘に至る直前の場所では、同丘につらなる小高い丘の東方が茶樹に覆われているのを発見した。
この丘にある茶樹の花は甘美で優雅な香りを放っており、今までに見つけた茶樹の花とは異なっていた。ただし、葉と実は他の茶樹と同じだった。
ここは茶の生産には格好の場所となるだろう。住民数が多く、穀物がよく実り、労働力が安価だからだ。
ここから徒歩で2時間の距離には、ジャムギー(Jhamgy)川と呼ばれる小さな川がある。船による航行ができ、聞いた話によると、1年を通じて小型カヌーが通れるそうだ。このカヌーで茶を運ぶことができるだろう。しかもここは、上アッサム地方の主要都市であるジョルハット(Jorehaut)からわずか1日半の行程の場所だ。
グラブルー・プルブト(Grabrew Purbut)(ほぼ2日の行程の場所)の南西には、丘の麓に村があり、ノラ族(Norahs)と呼ばれる人々が暮らしている。私が思うに、彼らは東方から来ているのだから、シャン族に属しているはずだ。シャン族の土地では茶を豊富に産する。
私はノラ族の人々とじっくり話を交わした。村長でもある長老から聞いたところによると、彼の父親は若かったころに多くの人々と一緒に移住してきて、ジャイプールの対岸にあるティプム(Tipum)に定住したそうだ。移住した理由は、ムンクム(Munkum)での騒乱が絶えなかったためらしい。また、彼らは茶樹を携えており、それをティプム丘に植えたと言う。茶樹は今でもその場所にある。この長老は16歳ぐらいのころにティプルム(Tipurm)を離れなくてはならなくなった。同地での戦争と騒乱のためだそうだ。そして、現在暮らしているこの村に逃れてきたのだという。
本人によれば今は80歳になり、父親も非常な高齢で亡くなったという。この話が本当なのかどうかはわからないが、長老が作り話をして得をするとも思えない。
この地域で出会った人々の中で、茶樹についてなんらかの情報を与えてくれたのはこの長老だけだった。ただし、アホム族(Ahum)に属する一人は例外であり、この人物によると、ムンクムから茶樹をもたらしたのは、スーカ(Sooka)(アッサムの初代カチャリKacharry王)だそうだ。彼によると、この話はプティー(Putty)(「歴史」の意味)に記されているという。
この『アホム-プティー』(『アホム(アッサム)王国史』のことではないかと思われます)は未入手だが、私が知るところによれば、ノラ族の老人が指摘したティプルム丘にあるという茶樹についての情報は間違いではない。私はその場所を通過したことがあり、そこでは茶樹が密に生い茂っていて、約300ヤード四方の区画が丘の麓から頂へと続いていた。
老人の話によると、彼の父親は3年ごとに茶樹を切り詰めており、これは若い葉を得るためだったそうだ。
 ガブルー(Gabrew)の西では、茶樹は一本も発見できなかったが、ダンシリ川(Dhunseeree)の西方では、1種を見つけることができた。ただし、私たちが用いているものとは異なっていた。
もしダンシリ川(Dhunseeree)の西側に暮らしている人々が真正の茶葉を見慣れていれば、茶樹は見つかるのかもしれないが。
私は探索した先々で茶樹を植えてきた。いずれそれらは人の目に触れることになるだろうが、茶樹を探し当てるには、その樹のことを実際に知っている人間を派遣する必要がある。
そうすれば、大量の茶が発見されることになるだろう」。ブルース氏は、アッサムで生産された茶葉の性質を調べる作業にも従事している。
1838年、ブルース氏と助手らがロンドンに出荷した90箱の茶葉は、高い品質のものだったということだ。
ブルース報告書には、出荷作業についての記載もある。「最近まで、中国人の紅茶製造技術者は2名しかいなかった。彼らは現地で採用した12名の助手を使用している。つまり、1名の中国人製造技術者が6名の助手を使って、ひとつの場所で製品化を行うのがせいぜいであった。そのため、互いに離れた場所にあるさまざまな産地からの茶葉を製品化するには、茶葉をこれら2箇所に集める必要があった。
それには追加の作業者を常時雇用して、非常な遠隔地から茶葉を運んでこなくてはならない。
茶葉は発酵が始まるのが早いため、多量を遠隔地から運ぶと傷んでしまう。かといって、夜間の茶葉劣化を防ぐためだけに労働者を雇う余裕はない。
このため、夜遅くまで作業に追われる場合が多い。
少ない作業者に重労働を強いたところで、多くの作業者を雇った場合と同様の成果は期待できない。
また、収穫期の最後に摘まれた茶葉は大きくなりすぎて、茶葉に適したサイズを上回ってしまう。早い時期に摘んで製品化しなければ、品質の劣った茶になってしまうのだ。
つまり私が言いたいのは、茶製造技術者の数が少ないと、このようにさまざまな不都合が生じて出費がかさむことになるということだ。
12名の助手によって作られた紅茶のサンプルは、カルカッタ茶業委員会によって承認された。私は、この人々を異なる生育区画に派遣するつもりだった。だが、境界線で最近起こった騒乱のために計画の実行が妨げられ、アッサムのカフング(Kahung)と呼ばれる場所で10名(と、カルカッタまでの搬送管理にあたる2名)を雇わなくてはならなくなった。このカフングは、広範囲におよぶ重要な茶産地となっており、周辺にも多くの産地があるため、茶葉を1箇所にまとめることができる。
じゅうぶんな数の製造技術者を確保できれば、中国での場合と同じように、それぞれの生育区画や茶園に何名かを置く余裕ができる。こうすれば、商品価格の低さにおいては、かの国(中国)を相手に競うことができるだろう。いや、彼らよりも低い価格で売ることもできるだろうし、そうしなくてはならない。それぞれの生育区画や茶園が茶製造技術者と作業者を擁していれば、収穫のたびに12日を超えて作業が続くことはないだろう。これが終われば解雇することもできるし、茶畑での作業にあたらせることもできる。
しかしながら現在は、作業者と茶製造技術者の数が不足しており、月間を通して絶え間なく茶を摘んでいる。すでに述べたとおり、最後に摘まれた茶葉からは質の劣った茶しかできない。さらに、葉が成長しすぎると茶葉にできなくなる。これらの損失はすべて、茶を摘む作業者の不足によるものだ。
今年は、昨年に加えて12名の紅茶製造技術者を確保できた。また、12名の助手を現地で雇用している。これらの助手たちは昨年来、茶の製造技術を学んでおり、来年からは独力で茶の製造にあたることができるだろう。
以上の人員に加えて私たちは、2名の中国緑茶製造技術者を確保し、彼らの下に12名の現地助手を配属して技術の習得にあたらせている。しかしながら、膨大な茶葉の量、今後3年間における茶樹の生育面積(もしくは見込み面積)を考慮するならば、このような措置ではとうてい対処しきれないだろう。
私たちは、欠くべからざる2者―茶製造技術者と作業者―を、茶摘み期の茶園に配備するようにしなければならない」。ブルース氏は中国からの茶樹導入と自生種の移植作業に深く関わってきた。
さまざまな理由によって苗の多くは育たなかったが、ブルース氏が表明したところによれば、茶樹は非常に強健なため、シェード・ツリー(日陰樹)と根の近くにじゅうぶんな水分がある場所であれば、ほぼどのような土壌でも生育できる。
このように茶樹を移植した理由は、茶樹を利用できる年数が限られているという点にあるようだ。
アッサムの自生樹は利用可能な樹齢を超えているか、あるいは、利用には向かない。その一方、播種はすぐに満足のいく結果が得られるわけではなく、播種後3年間は生産性を持たず、成木になるまでには約6年を要する。
ブルース氏は、株から新しいシュートを出すために老木を焼却もしくは伐採することの妥当性を議論しており、氏によれば、このような方法によって生産性を高めて、良質かつ高級な茶葉を得ることができるという。
ブルース氏は、紅茶と緑茶は実は同じ植物から採取されたものであり、両者の違いは葉の状態と製茶法の違いにあるという最近知られた事実を再確認している。
ブルース氏が述べている中国人による緑茶の製造法はきわめて興味深いのだが、ここに掲載するには長すぎる。
アヘンによる風紀の紊乱とアッサム人の特徴である自営労働への嗜好のため、アッサム地方での茶の大規模生産には困難が伴っている。
ブルース氏は、大規模生産を実施するための方策として、インドの他地域からの労働者受け入れに注目している。
また、茶葉をある特定の状態にして同国に送り、中国では手作業で行っている手間と時間のかかる工程に安価な機械力を利用することも不可能ではないと考えている。
ブルース氏の言はこうだ。「中国人のもとで1年間の見習いをすれば、イギリス人の創意に任せて、葉揉み、篩い分け、乾燥の各工程を機械で行うこともできるだろう。そのうえ、緑茶の価格を半値近くまで下げることができるため、藍と硫酸石灰を混ぜない良質な緑茶を貧困層に提供できる」。
1838年、アッサムでは5箇所で茶樹が栽培されており、その産出量は5,274ポンドになる。
1840年にはさらに7箇所で茶樹を栽培することになり、ブルース氏は11,160ポンドの産出量を見込んでいる。
以上の作業は会社からの出費となるが、遠からず、民間投資家に門戸を開放する予定になっており、この件に関してブルース氏は民間投資家が得られるであろう予想利益の試算にとりかかっている。
ブルース氏は10箇所の茶樹生育区画を確保しており、それぞれの面積は40×200ヤード、見込まれる栽培費用全額は初年が16,591ルピー(£1,659に相当するだろう)、このうちの4,304は2年目には不要となる。ブルース氏の試算による生産価格は35,554ルピーであり、負担率を超える利益をもたらすことになる。
全体として、アッサム地方が重要な茶葉を産する能力を持っていることを疑う理由は、ほとんどないように思われる。英国内では年間800ないし900万(ポンド)が茶葉に費やされている。
しかしながら、同国においてアッサム茶の生産システムを確立し、大規模な茶樹栽培、適正な茶葉の選択、茶葉の乾燥と取り扱いをめぐる微妙な問題を解決していくには、かなりの時間がかかるだろう。