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ティーレースというと、どんな風景を思い浮かべるでしょうか。
レースというからには、数隻の船がお茶を積んで、同時にスタートしなければ、公平なレースは出来ないはずです。当然、主催者がいて、公平なスタートを見極めて、ゴールにも審判員がいて、不正がないかを確認して順位が決められるはずです。
それが常識であり、日本人はティーレースとは、そういう風に行われ、その順位によって賞金が支給されたものだと、思い込んでしまったのです。そこが日本の常識と、世界の常識が食い違った最大の原因だと思います。
実は、ティーレースには、主催者が存在しません。
当然、賞金も出ていません。
ならば、どうして競争をしたのか。
当然と言えば、当然お話ですが、お茶は新鮮な方が美味しいですよね。
オリエンタル号が運んできたお茶は、ロンドンの人を驚嘆させました。そして、そのお茶は、非常な高値で売れたのです。
初ガツオと同じなんですね。最初に到着したお茶には、当然、プレミアとして高値が付きますから、茶商は少しでも早くお茶を運ぼうとしたのです。
ティーレースは、決まった港から出航したわけではありません。決まった出航日も有りませんでした。当然ですが、少しでも早く出た船が有利です。早く運ぶ事が出来そうな船は、少しでも早く積み込みが出来る港、埠頭を選びました。そして、お茶を積み込む賃金が高くても早く積み込ませて、少しでも早く出航したのです。すべて、プレミアの付く高い価格を得るために。
そして、少しでも早くロンドンへ着こうとしたのです。お茶の運搬は、商業活動ですから、この事は、あまりにも当たり前のことです。
そして、この一番茶を運ぶ商売上の競争のことを、ティーレースと呼んだのです。
例えば、1870年には、最初に帰ってきた船はテーピングで、Whampoを6月9日に出て、112日をかけて、9月29日にロンドンへ着いています。次に付いたのがチタニアで、カティーサークは6月25日に、上海を出航し、10月12日に3番目で、ロンドンへ戻ってきています。
この年には、数ヶ月後に、もっと早い航海があったそうです。10月12日、レンダーが上海から、ラーローが福州から出航し、共に98日間でロンドンに着いています。
カティーサークは、当時最も早いと言われた、サーモピレーに勝る船として建造されています。そして、その雌雄を決着させるレースは、1872年に行われました。
このレースは公平に行われ、6月18日、上海から2隻の船は同時に出航しました。当初はカティーサークがリードしていたようですが、カティーサークは喜望峰沖で舵を失い、仮艤装するために10日間を費やしましたが、サーモピーレーに遅れること7日間でロンドンに着いたそうです。
時には、雌雄を決するために同時スタートも行われたのでしょうが、ティーレースとは、基本的に多くの利潤を上げるための、商業的な競争だったのと言うのが、真実のようです。
注:航海の記録は資料によって違いがあります。上記は主としてHelenさんの話を中心に構成してあり、確定したものではありません。今後の研究によって詳細が明らかになることを望みます。
スエズ運河の開通は、この競争に大きな影響を与えました。
帆船が90日以上かかって、茶を運んだのに対して、運河を通る定期便の蒸気船は、60日という航海での輸送を実現しました。
が、すぐに帆船での輸送が無くならなかったのは、燃料も、通行料も要らず、多くの荷物を運べる帆船が、まだ、経済的には有利だった事の証明ではないでしょうか。
また、定期便である蒸気船の航海の頻度も私は、まだ、調べていません。もし数ヶ月に一度の運行であれば、不定期船(チャーター船or自社船)である帆船の方が早く運ぶことが出来たのかもしれません。この辺りは、この話に興味を持っていただけた皆様を含めて、今後の調査に期待したいと思います。
1877年の航海を最後に、カティーサークでの紅茶の輸送は、とうとう経済的にも合わなくなり、カティーサークは様々な荷物の運搬をすることになります。そして1880年には、日本(横浜)へも来ています。
その後、一時期、ウールクリッパーとして、オーストラリア航路で活躍します。そして、ポルトガルに売られ、植民地貿易に従事し、海軍の所有となり、名前も数回変わりました。
当時の船長、Wilfred Dowmanは、その船がカティーサークであることに気づき、イギリスに買い戻し、練習船とします。氏の死亡後、船はテムズ大学へ寄贈されますが、1951年カティーサーク協会へ寄付され、1954年に、現在のグリニッジの専用ドッグに固定されます。
一般公開は、1957年6月25日からされるように成りました。
その後、運営は海軍信託組合に移りましたが、現在もそのまま公開されています。
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