カティーサーク タイトル画像

カティーサークは、 ティーレース
に、本当に参加できなかったの?

序文

「カティーサークって何?」と聞いて、「ウィスキー」と答える人は人はお酒飲み、そして「ティークリッパー」と答える人は、お茶好きです。(^^;

19世紀の半ば、中国からイギリスへ、一刻も早く新茶を運ぶ、帆船によるティーレースが行われていたと、言われています。
その中でも、もっとも有名で、最も美しいと言われたティークリッパー(茶輸送用の高速帆船)がカティーサークです。

しかし、日本の多くの本には「カティーサークは、その1週間前に開通したスエズ運河の為に、ティーレースが終ってしまい、とうとう参加できなかった。」と書かれています。中には「茶を運ぶことさえなかった。」とまで、書かれています。

これは明らかな間違い
です。

カティーサークはティーレースをしていれば、当然、茶も運んでいます。

これは、その記述に疑問を持って、真実を追究した私の記録と、ティーレースの真相に一番近い話を書いたページです。

歴史的背景


1869年11月22日の午後、スコットランド・グラスゴーのダンバートンにあるスコットアンドリントンズ造船所で、カティーサークは進水しました。当時最速のティークリッパーであった「サーモピレー」に勝る船として作られたのです。

しかし、そのちょうど1週間前、10年の年月をかけて建設されたスエズ運河が開通します。このスエズ運河は海運事情を大きく変えました。ティークリッパーは新茶を出来る限り早く運ぶために造られた船ですからそれ程ではないのですが、普通の輸送船は、航海日数が約1/3に減ったそうです。

話は戻って、1849年、イギリスの貿易はイギリスの船に限る、という航海条例が廃止されます。東インド会社が独占的に茶の貿易をしていた頃は、海賊の出没も有り、殆ど軍艦のような装備を持った船で、船団を組み紅茶を運んでいました。船団を組んで航海するには、一番遅い船に速度を合わせる必要があります。そうすると途中での食料補給も必要となり、立ち寄った港でまた交易をしながら航海を続けることになります。この様な時代では、半年から、極端な場合、2年くらいをかけてお茶を運んだのだそうです。

東インド会社の茶貿易の独占は、1833年に終り、イギリスの茶商が独自に茶貿易に乗り出します。当時アメリカでは、ボルティモアクリッパーと言われる高速帆船が開発され、貿易に使われていました。1849年の航海条例の廃止により、アメリカの高速帆船がイギリスの茶貿易へ乗り込んできたのです。

翌年1850年12月3日、アメリカのクリッパーシップ、オリエンタル号が1500トンの茶を積んでロンドンに到着します。この時イギリスの人達は始めて、その年に摘んだお茶を、その年の内に口にすることが出来たのです。その新鮮さに驚き、価格はプレミアが付き、オリエンタル号は、その航海だけで建造費の2/3の運賃を得たそうです。

イギリスの茶商は、愛国心もかなぐり捨てて、アメリカンクリッパーでお茶を運ぶことにしたと言われています。そこでイギリスの海運業者もティークリッパーの建造に取りかかります。こうしてティーレースが始まりました。

話を戻して、カティーサークの進水1週間前のスエズ運河の開通により、ティーレースは終焉を迎え、帆船輸送の時代から、蒸気船輸送の時代へと変わっていきます。それでは、そのカティーサークはいったいどうなったのでしょうか。

日本の多くの茶の本に「ティーレースには、参加出来なかった。」と、書かれ、ときには「茶を運ぶことさえなかった。」と書かれているのは、本当でしょうか。これが、このページの主題です。

ここで出てくる疑問は、2つ有ります。

1.スエズ運河の開通によって、翌年、1870年のティーレースは中止となったのか?

2.ティーレースには参加できなかったと仮定しても、お茶を運ぶ為に作ったカティーサークは本当に茶を運ぶことが無かったのか。

これについて検証してみましょう。

調査前の推定

まず、私が初めに想定した推測です。

1.スエズ運河の開通によって、翌年、1870年のティーレースは中止となったのか?

当時、賭けまで行われていたとされ、国民的行事とされていたティーレースが、半年前のスエズ運河の開通ぐらいで中止となるとは、とても思えません。ましてや伝統を重んじる国イギリスです。プライドに掛けても行った事でしょう。

2.ティーレースには参加できなかったと仮定しても、紅茶を運ぶ為に作ったカティーサークは本当に茶を運ぶことが無かったのか。

スエズ運河が開通したとしても、スエズ運河は、開設に10年の年月を要している大工事です。その費用は通行料として運賃にかかるはずです。また、蒸気船は多くの石炭を必要としますが、帆船のエネルギーは風だけですから燃料は全く必要有りません。

蒸気船がエンジンや燃料などにスペースを奪われるのに対して、帆船のなかは空洞ですから、同じ大きさの船であれば遙かに多くの荷物を運べます。

と言うことは、スエズ運河を通ることの出来る蒸気船の方が、遙かに早いとしても、経済的にはどうだったのでしょうか。
通常考えれば、スエズ運河が開通して、実際に運行が始まり、数年して蒸気船の経済効果が確かめられて始めて帆船が衰退していくのではないでしょうか。

なによりカティーサークが建造されたこと自体が、経済的に帆船の方が勝っている可能性が有ると、思われていた証拠なのではないでしょうか。

と言うことでカティーサークが、一度も茶を運ばなかったとは思えません。

この写真をご覧ください。

カティーサーク 船首の画像 クリックすると大きくなります。

 

現在、カティーサークは、ロンドングリニッジに展示され、内部を公開されています。
この写真は1998年2月に、私が訪れたときに写してきた写真です。

カティーサーク 船主像コレクション  クリックすると大きくなります。

船倉は2段になっており、上の段の前方は、ティーチェスト(茶箱)で仕切られ、展示スペースになっています。下の段には帆船の船主像のコレクションが展示して有ります。

 

 

ここに展示してあるティーチェストは偽りなのでしょうか?。

カティーサーク 展示室 ティーチェスト(茶箱)で仕切ってある。  クリックすると大きくなります。私にはどうしてもそうは思えません。カティーサークで配られる説明のコピーには「後にカティーサーク号はオーストラリアとの羊毛貿易をするようになったので」とかかれています。(杉山ノエルさん訳)その前はお茶を運んだのではないのでしょうか。

文献調査

本を調べてみると、若干ですが、日本のお茶の本にも、カティーサークがお茶を運んだとしている本がありました。

英国紅茶の館 仁田大八著 東京書籍
この本の中で仁田氏は、「大航海史」からの転載として、1870年6月25日に上海からの航海を紹介しています。P83

英国紅茶の話 出口保夫著 東京書籍
この本では、出口氏は、『そして「カティ・サーク」も、わずか十年でティ・クリッパーの役割をとじて、オーストラリアの羊毛を運ぶウール・クリッパーに転身することとなったのである。』と記述されています。P119


次に上げるのは、日本の本ですが、イギリスの人が書かれた本の訳本です。

紅茶・珈琲誌 E-Bramah著 梅田晴夫訳 東京書房社
この本は、ロンドンにあるブラマー ティー&コーヒー 博物館の館長の E-Bramah氏の書かれた本です。
この本にはこう書かれています。『最後の紅茶レースは1871年に行われたが、そののち残った船は外国に売られるか、さもなければオーストラリア航路にくらがえされ、旅行者を送っていっては羊毛をつんで帰るというような具合にになってしまったのである。』P201
最後のレースが1871年であれば、ティーレースに参加するために作られたカティーサークは、参加しなかったのでしょうか。

ビーケン家所蔵の写真集 世界の帆船
解説E.C.Abranson 写真F.W.Beken A.K.Beken K,J,Beken たちばな出版

この本は、現存する帆船の写真集ですが、単なる写真集でなく、その船の詳細なデータや歴史が書かれています。
ここには、『カティー・サークは、1870年の最初の航海で1位で、また翌年は2位で中国から戻ったが、サーモピレーはその2年間参加していなかった。両者の対決は1872年にかなったが、この時カティーサークは舵を失い、仮帆装と間に合わせの舵で約十日間の遅れをとってしまったが、カティー・サークがロンドンに戻ったのは、ライバル船のわずか7日後であった。』と書かれています。 P72


次は、海外の本にどう書かれているか見てみました。

The TEA Companion  Jane Pettigrew著 TheApple press出版
Jane Pettigrewさんは、イギリスの料理研究家で紅茶にも造詣が深く、イギリス紅茶協会(The Tea Council) のライターもされている方です。

この本には、『the last of races was in 1871, by which date steamships had taken over the work of most of the clippers and the Suez Canal had opend, knocking several weeks of the voyage between Europe and Asia.』ここには、スエズ運河の開通によってティークリッパーの仕事が蒸気船に取って代わられ、1871年に最後のレースが行われたと書いて有ります。P22

大御所の本に登場していただきましょう。「All about Tea」という本です。

All about Tea  W,H. Ukers著  The Tea and Coffee trade journal出版
1935年出版のこの本は、The Tea and Coffee trade journalというお茶と珈琲専門の世界的な業界誌の社主のW,H. Ukers氏が、その取材網を使って書き上げた本で、まさに茶の百科事典とも言える本です。
66年を経た現在でも、この本を越える茶の全体像を書いた本は無いと言われ、茶の歴史を書く人は必ずと言っていいくらい参考にする本なんです。

過去に何人もの方が日本語訳に挑戦しているのですが、あまりの広い範囲にわたる記述のため、未だに完訳されていません。が、@Nifty内の「茶の文化フォーラム・FTEA」において、ネットを活用した共同作業として、その翻訳が進められています。実は私も12章を担当しているのですがぁ...m(_ _;)m。

この本では「GOLDEN AGE OF THE CLIPPER SHIPS」と題して、P86からP108に至るまで、実に22ページに渡って、その時代の事についてかかれています。その中から今回の主題となるところを2か所拾ってみます。


『From 1870 to 1877 she made a number of tea passeages, none of then sensational.』
1870年から1877年の間に、カティーサークは何度もお茶を運んだと書かれているのです。第1巻7章P98

『In 1871, "Titania," by a ninetyseven days' run, captured the bule ribbon a field of four, sailing from Foochow and Shanghai. That year marked the end of tea races.』
ここで、the bule ribbon とは、スエズ運河を使って定期航路を開いた海運会社の船のことです。 この文章はチタニアというティークリッパーについて書いて有りますが、最後に「この年が最後のティーレースを記録した年です。」と書かれています。第1巻7章P101

カティーサークの絵(ポスター) クリックすると大きくなります。ここで、ちょっと本を離れて、リンアンの壁にかかっている絵(ポスター)を見ていただきます。これは、1998年、私がカティーサークを訪れたときに、カティーサークの中で買い求めてきた絵です。この下に少しばかりの文章が書かれています。


『on the third voyage in 1872 the Cutty Sark got the long awaited chance to race the Thermopylae home in the same weather and under the same conditions. Both left the mouth of shanhai river on June 18th. Both were held up by fog. When the weather cleared they sped down the China Sea and exchanged the lead several times over the next four weeks. Eventually the Cutty Sark gained a 400 mile lead...』

カティーサークの絵 蒸気船部分のアップ  クリックすると大きくなります。判りますでしょうか。なんと、ビーケン家の写真集に書かれていた、1872年のカティーサークとサーモピレーのレースの絵だったのです。
前に大きく描かれているのは、船首のナニー像から、カティーサークだということが判ります。後ろに描かれているのは、ほぼ間違いなくサーモピレーでしょう。この絵は、非常に象徴的な絵で、カティーサークの右後方には、なんと蒸気船が小さく描かれています。カティーサークを主役にしつつも、忍び寄る蒸気船の時代が実に象徴的に描かれています。


インターネットで調べたカティーサークの常識

日本のホームページ
日本にもカティーサークが大好きな人がいます。 特に石橋氏の「こだわりワールド」は凄いです。石橋氏は、10年の歳月をかけて、カティーサークの詳細な帆船模型を作り上げられました。
海外の本や雑誌を調べ上げ、ロープの本数にまでこだわった大作です。実に詳細に。実に忠実に作り上げられています。
当然、カティーサークの歴史にも詳しく、「CUTTY SARK by Noel C. L. hackney 」という本を中心にカティーサークの歴史を書かれていますから、是非、参照してください。

こだわりワールド

海外のホームページ
多くのサイトを見ましたが、多くののページが All about Tea と同じように、1877年が、最後にお茶を運んだ年、として書いて有りました。

DAYS OF SAIL
Greenwich Guide The Cutty Sark
CUTTY SARK - Museum-quality model of the Fine Art Collector`s Edition
Inverbervie Cutty Sark Page
Cutty Sark Historical Perspective
Cutty Sark
the Cutty Sark
Cutty Sark

(2001/2/13追加)THE TEA COUNCIL(英国紅茶協会)のページにも、カティーサークの記述がありました。
The Cutty Sark was built in 1868 and only carried tea on just eight occasions.
「カティーサークは8回しかお茶を運べなかった。」と、書かれていますね。

世界の、そして帆船の世界の常識では、原因として、1869年のスエズ運河の開通が、ティーレースを終了させたのですが、実際に終わったのは、1869年ではないのです。当たり前と言えば当たり前のことではないでしょうか。

ティークリッパーの詳細な記録
このサイトをご覧ください。究めつけのサイトです。このサイトはスウェーデンのアプサラ大学Lars Bruzelius氏のサイトです。
The Maritime History Virtual Archives


ここから、「Ships」→「British Tea Clippers 」と進んでください。そこには、イギリスで建造された全てのティークリッパーの詳細な記録が記されています。直接カティーサークのページへ行きたい人はこちらから(^^ゞ。

この記録によれば、カティーサークは、1874年に一度シドニーへ行っていますが、その他は1877年まですべて中国への航海ですね。茶を運ぶために造られた船が、毎年、中国へ行って、茶を運ばなかったのでしょうか。

もうここまで来れば言い切っても良いと思います。

「カティーサークは、確かに茶を運んでいます!。」

でも、ここまで調べても、ティーレースに参加したかどうかは、断定できません。Lars Bruzelius氏のサイトにも、All about Tea にも、他の海外のホームページにも、ティーレースの公式記録という物は記載されていません。ティーレースとはいったい何だったのか。もし、ティーレースの公式記録が存在するのなら、その公式記録にカティーサークの名前が記録されているのか。その辺りをハッキリさせなければ、カティーサークがティーレースに参加したとは言えない筈です。

カティーサーク自身のホームページ
最近、とうとう、あの3年前に訪れたカティーサーク自身が、ホームページを開いたのを見つけました。
The Cutty Sark : Greenwich : London

嬉しくなった私は、すぐさま、疑問に思っていたことを箇条書きにしてメールを送りました。

カティーサークのインフォメーションのHelen Jonesさんは、非常に親切に私の質問に答えてくれました。
そして、その返事の冒頭に書かれていたのは、

『CUTTY SARK competed in the Tea Races from 1870 until 1877.』

「カティーサークは1870年から、1877年までティーレースで競争していました。」 という言葉だったのです。

Helenさんとのメールのやり取りは数回続き、その結果、見えてきたのは、私にしても驚くべき内容でした。
しかし、その事実は、経済的な成り行きからすれば、至極当然の内容だったのです。

お待たせしました。以下が、Helenさんに聞いたことを元に書いた、当時のティーレースの、そしてカティーサークの真実に一番近い姿です。

真実に一番近い話(^^; カティーサーク

ティーレースというと、どんな風景を思い浮かべるでしょうか。

レースというからには、数隻の船がお茶を積んで、同時にスタートしなければ、公平なレースは出来ないはずです。当然、主催者がいて、公平なスタートを見極めて、ゴールにも審判員がいて、不正がないかを確認して順位が決められるはずです。

それが常識であり、日本人はティーレースとは、そういう風に行われ、その順位によって賞金が支給されたものだと、思い込んでしまったのです。そこが日本の常識と、世界の常識が食い違った最大の原因だと思います。

実は、ティーレースには、主催者が存在しません。
当然、賞金も出ていません。


ならば、どうして競争をしたのか。

当然と言えば、当然お話ですが、お茶は新鮮な方が美味しいですよね。
オリエンタル号が運んできたお茶は、ロンドンの人を驚嘆させました。そして、そのお茶は、非常な高値で売れたのです。
初ガツオと同じなんですね。最初に到着したお茶には、当然、プレミアとして高値が付きますから、茶商は少しでも早くお茶を運ぼうとしたのです。

ティーレースは、決まった港から出航したわけではありません。決まった出航日も有りませんでした。当然ですが、少しでも早く出た船が有利です。早く運ぶ事が出来そうな船は、少しでも早く積み込みが出来る港、埠頭を選びました。そして、お茶を積み込む賃金が高くても早く積み込ませて、少しでも早く出航したのです。すべて、プレミアの付く高い価格を得るために。
そして、少しでも早くロンドンへ着こうとしたのです。お茶の運搬は、商業活動ですから、この事は、あまりにも当たり前のことです。

そして、この一番茶を運ぶ商売上の競争のことを、ティーレースと呼んだのです。

 

例えば、1870年には、最初に帰ってきた船はテーピングで、Whampoを6月9日に出て、112日をかけて、9月29日にロンドンへ着いています。次に付いたのがチタニアで、カティーサークは6月25日に、上海を出航し、10月12日に3番目で、ロンドンへ戻ってきています。

この年には、数ヶ月後に、もっと早い航海があったそうです。10月12日、レンダーが上海から、ラーローが福州から出航し、共に98日間でロンドンに着いています。

カティーサークは、当時最も早いと言われた、サーモピレーに勝る船として建造されています。そして、その雌雄を決着させるレースは、1872年に行われました。


このレースは公平に行われ、6月18日、上海から2隻の船は同時に出航しました。当初はカティーサークがリードしていたようですが、カティーサークは喜望峰沖で舵を失い、仮艤装するために10日間を費やしましたが、サーモピーレーに遅れること7日間でロンドンに着いたそうです。

時には、雌雄を決するために同時スタートも行われたのでしょうが、ティーレースとは、基本的に多くの利潤を上げるための、商業的な競争だったのと言うのが、真実のようです。

注:航海の記録は資料によって違いがあります。上記は主としてHelenさんの話を中心に構成してあり、確定したものではありません。今後の研究によって詳細が明らかになることを望みます。

スエズ運河の開通は、この競争に大きな影響を与えました。

帆船が90日以上かかって、茶を運んだのに対して、運河を通る定期便の蒸気船は、60日という航海での輸送を実現しました。
が、すぐに帆船での輸送が無くならなかったのは、燃料も、通行料も要らず、多くの荷物を運べる帆船が、まだ、経済的には有利だった事の証明ではないでしょうか。 また、定期便である蒸気船の航海の頻度も私は、まだ、調べていません。もし数ヶ月に一度の運行であれば、不定期船(チャーター船or自社船)である帆船の方が早く運ぶことが出来たのかもしれません。この辺りは、この話に興味を持っていただけた皆様を含めて、今後の調査に期待したいと思います。

1877年の航海を最後に、カティーサークでの紅茶の輸送は、とうとう経済的にも合わなくなり、カティーサークは様々な荷物の運搬をすることになります。そして1880年には、日本(横浜)へも来ています。

その後、一時期、ウールクリッパーとして、オーストラリア航路で活躍します。そして、ポルトガルに売られ、植民地貿易に従事し、海軍の所有となり、名前も数回変わりました。

当時の船長、Wilfred Dowmanは、その船がカティーサークであることに気づき、イギリスに買い戻し、練習船とします。氏の死亡後、船はテムズ大学へ寄贈されますが、1951年カティーサーク協会へ寄付され、1954年に、現在のグリニッジの専用ドッグに固定されます。

一般公開は、1957年6月25日からされるように成りました。
その後、運営は海軍信託組合に移りましたが、現在もそのまま公開されています。

後書き

以上が、私の調べることが出来た、真実に一番近いカティーサークの話です。

読んでいただいて、よく判ったと思いますが、すべて、商業活動を行っていく上で、ごく、自然なことです。
なにも、お茶を運ぶのに、ヨーイドンで、競争をしたのではなく、他の船を出し抜いてでも、 一刻も早くお茶を運ぼうとしたのがティーレースと呼ばれた現象だったのですね。

これを読んだ方は、もう「カティーサークは、ティーレースに参加できなかった。」とか「お茶を運ぶことさえなかった。」と言うのは止めましょう。ホームページに、そう書いて有れば、書き直しましょうね。

最後に、私の質問に、本当に親切に答えていただいたカティーサークのインフォメーションセンターのHelen Jonesさんに、最大限の感謝の意を表します。

現在、カティーサークの中では、食事も出来るようになっています。いつの日か、また、カティーサークを訪れ、Helenさんに直接御礼を述べ、カティーサークの中でゆっくりとお茶を飲んでみたいと思っています。

カティーサークホームページ


文責 有限会社リンアン 紅茶専門店 TEAS Liyn-an 代表取締役 堀田信幸
    488-0837 愛知県尾張旭市庄中町鳥居1820
    TEL 0561-53-8403  FAX 0561-53-8405
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紅茶の真相ホームページ


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